「器用貧乏な自分にしかできない仕事がある」有國恵介
──連載:自分の仕事をつくる

「働き方」の多様化が進んだことによって、必ずしも仕事が効率化されたわけでない。むしろ求められる知識やスキルはより複雑化していった。本連載では、モデルケースのない時代に自らのキャリアを切り開く次代のリーダーに焦点を当て、「自分の仕事」をいかにしてつくるのか、そのリアルな声を集めていきたい。


Webから空間におけるインタラクティブ・デザインまで、テクノロジーを駆使した新しい表現を手がけているライゾマティクス。テクノロジーやエンタメ色の印象が強い同社だが、近年では空間づくりの仕事も増えてきているという。そうした仕事を中心となって進めているのが、プロジェクトディレクターの有國恵介だ。

有國は、2017年4月に開業した渋谷キャストの貫通通路に常設されたインスタレーション『Axyz』、2019年9月にグランドオープンした大丸心斎橋店のシンボル『D-WALL』、2019年11月に渋谷駅直上に誕生した渋谷スクランブルスクエアの展望施設『SHIBUYA SKY』など、話題の施設の空間づくりを数多く担当している。「プロジェクトのために必要なことはすべてやる」と語る有國。相手の期待を超える提案をするための仕事観を聞いた。

学生時代から培われてきた、一気通貫スタイル

――「プロジェクトディレクター」という聞き慣れない肩書きですが、どのような仕事をしているんですか。

ライゾマティクスは、エンジニアやデザイナーなどの実際に手を動かしてつくる人と、それ以外の仕事をつくり、進行してゆく人でざっくり分かれています。僕の立ち位置はその後者ですが、ちょっと特殊で、通常の制作プロダクションでは、営業、プロデューサー、プランナー、ディレクターと役割が分かれていると思いますが、それらを一人でやることが多いんです。チームも自分で編成するし、クリエイティブディレクターの時もあれば、プロデューサーやプランナーの時もあって、器用貧乏というか(笑)。何でもやるけど何なのか分からない存在だと悩んでいたんですが、最近は「ひとりで全部やれる人もなかなかいないでしょ」とポジティブに捉えています。

あと、僕が担当するクライアントはリピーターが多く、一度お仕事をご一緒すると継続的に依頼されることが多いんです。それはなぜかと考えてみたんですが、「早い」というのが理由のひとつだと思います。通常はまず相談する窓口があって、そこから考える人やつくる人を調整して、ようやく提案がくる。僕はプランナーやプロデューサーの経験もあるので、おおよその判断が自分でできます。それは自分の売りだなと、ここ数年でようやく思えるようになりました。そうした意識の変化もあって、「プロジェクトの入口から出口までクライアントと並走しながらプロジェクト全体の舵を取る」ポジションとして、「プロジェクトディレクター」を名乗っているんですが、誰も突っ込んでくれないんですよね(笑)。

――プロジェクト全体を俯瞰して見るような意識はいつから?

大学時代からかも知れないですね。入学したのは東京造形大学のデザイン学科環境計画専攻で、デザインマネイジメントを学びました。そこでは、デザインプロセスと方法を学びながら新しい価値をつくることをテーマに、さまざまな企画を考えていました。企業と一緒に取り組む授業も多く、時計メーカーと「新しい未来の時計を考える」といったものもありました。自分でプロジェクトを企画して、デザインに落としてプレゼンテーションをする、という一連の流れを学びました。大学時代からの友人からは、僕の仕事を見て「あの頃のまんまだね」って言われるんですよ(笑)。ただ、就職活動をまともにしなかったので、卒業後はプー太郎でした。

ある時、広告代理店に努めている友人の職場に遊びに行くことがあって、広告の仕事って面白そうだなと思ったんです。それで、どうせ広告をやるなら大手の電通か博報堂に......と図々しくも思ったのですが、どうやったら入れるかも全く想像が着きませんでした。お金も無いのでどうしようかと考え、ベンチャー企業に名刺やフライヤー制作の飛び込み営業をして、仕事をもらうということで食いつないでいました。そこから潜り込むような形でイベント制作会社に就職したのですが、そこには代理店の人がけっこう出入りしていて、社長が「こいつ、若くてイキがいいんですよ」と、僕のことを紹介してくれたんです。

「器用貧乏」な自分に悩んでいた有國だが、プロジェクト全体の舵を取りしていくことに強みと活路を見出した。

それからあれよあれよという間に、電通テックに出向になり、最終的には電通の中に席をつくってもらって、4年間ほどいました。

電通でもまた特殊な立ち位置というか、ひとりプロダクションみたいな感じでしたね。色々なポジションで携わらせてもらいましたが、最終的には企画書を書く仕事をやっていました。

コンペになると打ち合わせに呼ばれて、チームでの議論の内容を次の打ち合わせまでに紙にまとめる。プレゼンまでこれを何度も繰り返し行うのですが、当時から企画書を書くのが好きだったので良い修行になりましたね。制作会社、プロダクション、代理店の3箇所のお金の流れの整理をして、各社にちゃんと利益をつくることも同時に進めていたので、あの経験は確実に今に繋がっていますね。

――ライゾマティクス入社のきっかけは?

もう10年ぐらい前になるんですかね。電通の若手で面白いことをやろうというプロジェクトがあって、そこに僕も混ぜてもらえて、打ち合わせに参加したら大学の同級生の木村浩康(株式会社ライゾマティクス/Rhizomatiks Design)もいたのが、ライゾマティクス入社のきっかけになったかも知れないですね。当時、木村君とは、仕事が終わった後に深夜から明け方まで一緒に飲んで、帰宅したらすぐに会社に行くという悲惨な生活をしていたんですが、仕事の話は全然していなかったので「なんでお前がここにいるんだ」とびっくりしました(笑)。

ライゾマティクスには、自分たちだけで全部つくって世に出すという、広告業界のヒエラルキーを構造から壊してくるチームというイメージがあって。代理店の中で書類ばかりつくっている仕事に違和感を覚えていたタイミングだったので、ライゾマティクスのストレートなつくる姿勢のかっこよさに惹かれて入社することになりました。

空間の体験全体をストーリーから設計したい

入社した頃はいまのような大型の空間演出の仕事はまだほとんどなく、基本的にはウェブ制作やイベント演出がメインで、サイネージや展示のインスタレーションなどの仕事がたまにあるくらいでした。ただ、サイネージの形状の変化や大型のプロジェクションによって表現できることが増えてから、空間の仕事がぐっと増えてきました。例えば、2012年に渋谷ヒカリエの吹き抜けにあるリングサイネージを担当したんですけど、直径17mの大型LEDモニターともなると、コンテンツだけでなくハード面にも携わる必要が出てくる。もっと空間自体と関わってゆくことでできることが広がるなと感じました。

そこで、提案のやり方を根本から変えていったんです。コンテンツ制作だけでなく、そのコンテンツの容れ物やその空間自体のあり方から考えて提案する。例えば、3週間限定といった要件をあえて無視して、ずっと残していくことを前提とした提案をしたりしていました。イベントや広告の仕事では、数週間で壊してしまうのは当たり前でしたが、毎回一生懸命つくるのにもったいないですよね。

単発のイベントであっても、そのイベントが来年も継続できるようなテーマや手法を考えています。毎年変えること、新しくしていくことが良いことのように思われがちですが、別のアイデアを0からやるよりも、普遍的な表現を毎年積み重ねていくほうが結果的にその場所と人の関係性は強くなると思うんです。

――最近の有國さんのお仕事ではSHIBUYA SKYが印象的です。このプロジェクトでは、どのような提案を?

SHIBUYA SKYは、そもそもは「コンテンツ」のコンペだったんです。でも、ディスプレイの中だけ考えてもしょうがないし、オリエンの与件では求められていなかったのですが、「SHIBUYA SKYの全体の体験のプランニング」の企画書を130ページ超で段ボールに入れて納品したんです。それにはさすがに窓口の方も引いてましたね(笑)。そこに残るものをつくりたいという思いがずっとあったので、コンテンツだけでなく一連の体験づくりから携わりたかったんです。

時にオリエンの与件を無視してでも、その場所と人の関係性を考えた、一連の体験づくりに携わりたい。

もともと渋谷駅のそばにはプラネタリウム(天文博物館五島プラネタリウム、2001年閉館)がありました。駅のすぐ近くの一等地に文化施設があることが、渋谷のカルチャーの源泉にもなったと思うんです。SHIBUYA SKYも同じように、あの場所に「ずっとあるもの」にしたかった。

渋谷から広がる東京の街を一望する、SHIBUYA SKYの絶景エリアの「SKY EDGE」。 photo by KEITA SINYA(ROLLUPst.)

昔の人は高いところに登り、視界を遮るものがない景色を見て、この先になにがあるんだろうと世界を想像し、そこに神話を生み出しました。世界中の聖地をリサーチする中で、そこには、より感覚を開くためのフローの構造があることを知りました。街にもそういう場所が必要だとおもったんです。だから、展望台自体を「日常から非日常に行って、また日常に戻る」という体験を共有するための装置にすることを提案の骨子にしたんです。

その装置をつくるために、「分離→移行(抑圧)→解放→統合」という流れを空間に落とし込んでいきました。まず、14階から45階まで登るスカイゲートは、日常から分離し、そこを通る自分を意識させ、体感として少しキュッとなるような移行(抑圧)の体験を設計しています。屋上のスカイステージは空の舞台として、抑圧からの圧倒的な解放感を与えてくれる場所に、その後の46階を回るスカイギャラリーでは、登って開放された意識で新たな視点に気づいてもらうためのコンテンツを配置しています。時間という概念や目に見える景色の先、また街のビックデータなど目に見えない情報を渋谷の景色と重ねながら体験できるようにしています。

さらに、これらの体験の流れは、実は入口からのライン照明でつながっているんです。空間も演出も映像もコミュニケーションも、一貫した体験としてつくることを大切にしました。こうした体験は目に見えて解りやすいものではないですが、体験者と空間を共有しながら、意識の奥に訴えかけるものだと思います。ずっとそこにあることで、その場所の意味性は深まります。SHIBUYA SKYから地上に戻ってくると、いままで当たり前に見ていた風景に新たな視点が生まれる。この場所で想像力が育まれることで、街へと循環していくと良いなと思っています。

SHIBUYA SKY のプレオープニングイベントでは、jan and naomi によるスペシャルライブが行われた

――D-WALLもSHIBUYA SKYのように、その街の文脈や「そこにある」意味を意識したものですよね?

2019年9月にグランドオープンした大丸心斎橋店本館の1F~10Fのエスカレーターサイドに設置されたD-WALL。高さ約50m、幅約4mの大型LEDモニター装置で、大丸のシンボル的存在となった。 photo by Ichiro Mishima

そうですね。D-WALLももともとはLEDモニターの映像コンテンツの依頼だったのですが、情報媒体をつくっても体験は生まれない、体感させる装置をつくりましょうと提案しました。D-WALLの設置場所となる吹き抜けの空間は百貨店の中心となる場所にあるので、ただの展示物ではなく、「継承・創造・発信」という新生大丸のコンセプトに即した"シンボル"となるようなものを意識しています。ただ、最初は全面の彫刻パネルをキネティックに動かそうと思ったんですけど、そこは予算とスケジュールの関係もあって......。

――最初の要件以上の提案する場合、予算はどのように調整しているのでしょうか?

エスカレーターから映像を高精細に見せようとすると、何億円もかかるような数ミリピッチのLEDが必要です。ですが、エスカレーター空間全体の体験を考えたときに、具象的な映像をしっかりと見せることよりも、全体の印象やその存在感の方が大切になります。何のための演出なのかを明確にすることで、映像ハードにお金をかけるよりも、その前に彫刻パネルを創り、抽象的な映像と掛け合わせたほうがよりシンボリックな物になる。そういった予算の使い方から提案しています。

彫刻×映像の融合によって生み出される大丸心斎橋店本館のシンボル「D-WALL」の制作ストーリー

子供に見せられるものをつくるために

――この先、「自分の仕事」を通してどんな状況をつくっていきたいですか?

長期のプロジェクトって、アウトプットにチームの関係性のようなものが出るんですよ。いかに気持ちよく進められるかが最終的なクオリティに直結するので、できる限りフラットにいるようにしています。打ち合わせは仕切るものの、最終的にチームで決めることを大事にします。育ってきた環境も働いている現場も違うから、何を目指すかはやっぱり熱く語り合わないとダメだし、チームのモチベーションをつくっていくことも僕の仕事だと思っています。なので、どうしても僕の企画書は重く熱苦しくなってしまうのですが(笑)。

新奇性よりも場所に定着するものを。ライゾマティクスの先進的なイメージをいい意味で裏切る有國らしい考え方だ。

あと、オリジナルなものを目指そうとすると、つい新しいものをぽんと置きがちなんですけど、そういうやり方ではその場所に定着しないと思います。その街の歴史やそこに集う人の思い、そういったものを大事にしたいですね。生み出して終わりじゃなくて、ちゃんと責任を持って残していけるものをつくりたいんです。長く残るものだったら、自分の子どもにも見せられるじゃないですか。

――これからのご自身のキャリアについては?

有國:それ悩んでるんですよ......どうしたらいいですか(笑)。ずっと器用貧乏だと思っていたけど、それが自分のやり方だし、実は武器だなと思えるようになってきました。今もいくつか大きなプロジェクトが動いているので、子どもに見せることのできる、意味のある場をつくり続けていきたいですね。

初出:BNL(2020.02.28)

  • TEXT BY 八木あゆみ
  • PHOTOS BY 高木亜麗
  • EDIT BY 瀬尾陽(BNL)